まず、2つの調査機関の数字が食い違っている
中国の工業ソフトウェア市場規模として引用される数字は、主に次の2系統です。
| 調査機関 | 2024年 市場規模 | 前年比 | 発表時期 |
|---|---|---|---|
| 赛迪顾问(CCID Consulting) | 3,649.7億元 | +14.6% | 2025年1月16日(福建省工信庁サイトに掲載) |
| 观研天下 | 3,197億元 | +13.2% | — |
差は約450億元、率にして14%です。日本円に換算すればおよそ9,000億円分の開きで、この時点で「中国の工業ソフト市場は◯◯億元」と単一の数字で断定することの危うさが分かります。同じ現象は世界のMES市場規模にもあり、2025年の基準規模は調査会社4社で144.7〜176億ドルと20%以上開いています(MES市場規模の記事)。
赛迪顾问は2027年に5,312.7億元(当年成長率12.7%)と予測し、研究開発設計類(CAD/CAE等)は2025〜2027年のCAGR 17.3%で2027年に535.0億元、産業浸透率は2025年82%から2030年90%へ、としています。
核心:市場の約6割は「埋め込み型ソフト」である
ここが本記事の要点です。中国の工業ソフト統計には、日本の感覚と大きく異なる分類慣行があります。
埋め込み型ソフト(嵌入式软件)とは、機器や装置に組み込まれて出荷される制御ソフトウェアのことです。産業用ロボットのコントローラ、CNC工作機械の制御ソフト、計測器のファームウェアなどが含まれます。中国の工業ソフト統計はこれを市場に算入するため、総額が大きくなります。
日本で「工業ソフトウェア市場」あるいは「製造業向けソフト市場」と言うとき、通常この埋め込み型は含めません。したがって、3,649億元という数字をそのまま日本の統計と並べると、実態の2倍以上に見積もることになります。CAD/CAE/PLM/ERP/MESといった、いわゆる産業ソフトウェアは残りの約4割部分です。
MES単体は、定義次第で65億元〜330億元に開く
さらに深刻なのはMES単体の推計です。公開されている数字を並べると次のようになります。
| 数値 | 対象年 | 定義 | 出所 |
|---|---|---|---|
| 142.8億元(+13.9%) | 2023年 | ソフト+サービス(ハード除く) | 中国报告大厅(2025年1月3日) |
| 2027年 600億元超(CAGR約19.5%) | 予測 | 同上 | 同上 |
| 65億元超 | 2024年 | MESソフト(うち機械装備向け28%) | 新浪财经(2025年2月8日) |
| 328.7億元(+23.6%) | 2025年下期〜2026年上期 | 明示なし | 赛迪顾问のデータを黑湖科技が引用(ベンダーブログ) |
最小65億元、最大328.7億元。レンジが5倍近く開いています。同じ国の、ほぼ同じ時期の市場規模です。
乖離の最大要因は、「ソフトライセンスのみ」を数えているか、「SI・実装サービス込み」で数えているかの差だと考えられます(これは各調査の定義書を突き合わせた結果ではなく、推測です)。中国のMES案件は実装サービスの比重が高く、ソフト単体とプロジェクト総額で3〜5倍の差が出ても不自然ではありません。加えて、MOM/工業インターネットプラットフォーム/生産管理ソフトのどこまでをMESと呼ぶかという境界の問題もあります。
この数字を使ってよい場面と、使ってはいけない場面
使ってよい場面は、成長率と構成比の比較です。市場規模の絶対値は定義でぶれますが、同一調査機関の時系列における成長率は比較的意味があります。赛迪顾问ベースで研究開発設計類(CAD/CAE等)が2025〜2027年にCAGR 17.3%というのは、中国が「設計の上流」を国産化しようとしていることを示す情報です。設計上流は最も国産化が遅れていた領域だからです。
もうひとつ意味があるのが国産化率です。观研天下(2024年)によれば、経営管理類(ERP等)が約70%、生産製造類(MES/MOM等)が約60%、運用保守サービス類が約50%。この数字は「中国拠点で外資MESを提案したときに、どの程度の逆風が想定されるか」という実務判断に直接使えます(信創とMES選定の記事)。
使ってはいけない場面は、日本市場との規模比較と、ベンダーのシェア議論です。前者は定義が揃わないため。後者は、分母(市場規模)が5倍ぶれる状態でシェアを論じても意味がないためです。中国語圏で流通する「MESランキング」型の記事は、まさにこの曖昧さの上に成立しています(中国の「MESランキング記事」はなぜ市場情報にならないのか)。
市場規模より確度が高い、政策側の数字
規模推計より信頼できるのは、政策目標と実績値です。これらは所管官庁が自ら公表し、達成状況が追跡される性質の数字です。
ただしこれらも中国側の自己申告・自己評価に基づく統計であり、「デジタル化改造を実施した」の定義がかなり緩い可能性があります(推測)。報告書自身が「沿海クラスターが知能化を牽引し、中西部は規模で基盤を築く」という格差構造を認めています。89.6%という数字を「中国の工場の9割がデジタル化済み」と読むのは誤りです。デジタル化設備普及率が57.7%であることと並べれば、「何らかの改造に着手した企業が9割、設備レベルで実装が進んだのは6割弱」という読み方のほうが実態に近いと考えられます。
日本の読者が中国拠点の投資稟議でこれらの数字を使う場合、市場規模ではなくこの普及率の系列を使うほうが説得力があります。競合との相対位置を示す数字として機能するためです。
よくある質問
中国のMES市場規模を社内資料で引用したいのですが、どれを使えばよいですか?
用途によります。市場の成長性を示したいなら「中国报告大厅が2025年1月に示した2023年142.8億元・前年比13.9%、2027年600億元超という予測」のように、出所・時期・定義をセットで書いてください。規模感を示したいなら「調査機関により65億元から330億元まで開きがあり、ソフト単体かサービス込みかで定義が異なる」と幅で書くのが正確です。避けるべきは、複数の調査機関の数字を切り貼りして成長率を自作することです。定義が異なる数字をつなぐと、実在しないトレンドが生まれます。
埋め込み型ソフトを含める中国の統計は、間違っているのですか?
間違いではありません。分類の思想が違うだけです。中国の統計は「工業に使われるソフトウェア」という産業政策的な括りで、装置に組み込まれた制御ソフトも国産化の対象として重要視されます。実際、CNC制御ソフトや産業用ロボットのコントローラソフトの国産化は、中国の産業政策上の重点課題です。問題は統計の側ではなく、その数字を日本の統計と並べる引用者の側にあります。国際比較をする場合は、経済協力開発機構(OECD)やIDCなど、同一の分類基準で複数国を測っている統計を使うのが原則です。
